あの日のこと〜1年経過して〜

それはいつものように出勤の準備をしていたときのこと。いつものように新聞をナナメ読んでいた辛坊さんの一言から始まった。
「世界同時不況の影響が国内の企業スポーツにも影響を与えていまして、名門の西武がアイスホッケー部を廃部するという…」

……
………
「嘘だろ!?」
あまりの衝撃に、頭が真っ白になった。
3年前、長きに亘って日本アイスホッケー界のドンとして君臨してきた堤義明西武グループ前会長の逮捕を受けて西武グループが再編され、アイスホッケーファンにとっては馴染み深い「コクド」の名前が消えることになった際(余談ながら、あの事件で初めて「コクド=西武鉄道の子会社」ではなく、「西武鉄道=コクドの子会社」という事実を知った)、「アイスホッケー部はグループの象徴だから存続する」という発表を聞いた時は安堵していたのに、それからわずか3年でこうも状況が一変してしまうとは…。
「西武」のアイスホッケー史は日本アイスホッケー界の歴史そのものであると言っても過言ではない。1966年(昭和41年)、「西武鉄道」として創部し、同年に始まった日本アイスホッケーリーグに参戦。1972年(昭和47年)に西武から分離する形で国土計画(1992-1993シーズンからコクドに改称)が誕生。2003年(平成15年)に西武とコクドの両チームが合併し、新生「コクド」となり、2006年(平成18年)に「SEIBUプリンスラビッツ」に改称。この間数多くの名勝負を演出し、多くのスター選手を輩出するなど、日本のアイスホッケー史にその名を刻み込んでいる。特に自分が応援する王子製紙(現王子イーグルス)との一戦は「攻めの王子、守りのコクド」というキャッチフレーズが出来るほど人気を誇っただけに、この一報は日本アイスホッケー界に衝撃を与えた大事件となった。
それから3ヶ月間、自分でも「こんなにアイスホッケーを観に行ったこと、あったかな」と思うくらい、出来る限りリンクに足を運んだ。1月のラビッツクラシック、2月の全日本選手権で存続を求める署名に必死で記名したこと、3月のアジアリーグプレーオフ・ファイナルを2度も観に行ったこと(第2戦、第6戦)、こんな劇的な結末誰が予想した!?という衝撃に襲われた第6戦の鈴木貴人主将の決勝ゴール、日本製紙クレインズに敗れ、ラビッツ最後の試合を飾れなかった日の鈴木主将の涙の会見、その週末に行われたラビッツ最初で最後のファン感謝祭、そして希望叶わず解散が正式に決定した3月31日のこと…。まるで昨日のことのように思い出される。そして自分でも、今まで年に2〜4試合ほどしかアイスホッケーの試合を観に行かなかったのに、2008-2009シーズンに限ってみると、9試合も観に行っていたという事実に今更ながら驚く。
あの衝撃的な1日から1年経って、国内では今季も無事にアジアリーグの試合が行われている。だが、そこにウサギのマークを付けた男達の姿は無い。恐らく多くのファンが心に大きな穴が開いたような心境で今季アイスホッケーに接しているのではないだろうか。
そしてSEIBU廃部は日本アイスホッケー界のピンチであるということを忘れてはならない。アイスバックスは相変わらず厳しい経営状況だし、王子イーグルスクレインズに至っては活動費の圧縮に伴い、外国人選手の契約打ち切りないし人数削減という事態に陥っている。この不況が続く限り、「何時無くなってもおかしくは無い」ということを肝に銘じておかなければならないのである。
アイスバックスに移籍した鈴木はラビッツ最後の試合の会見で「アイスホッケーは良いスポーツだという事、SEIBUというチームは良いチームだった、ということは伝えられたんじゃないかと思う」と語ったが、我々ファンが出来ること、やらなければいけないことはまさにそれで、アイスホッケーを知らない人間に、いかに「アイスホッケーは面白いスポーツだ」ということを伝えることだと思う。
また、西武グループがアイスホッケーから手を引いたということは、同時に日本スケート界の危機であるとも言える。現在西武グループ東伏見(ダイドードリンコ)、新横浜、東大和等でスケートリンク運営を行っているが、もし将来これらのリンク運営からも撤退してしまったら、首都圏でスケートに触れられる場所、機会の減少を意味する。それこそスケートというスポーツ自体北国でしか出来ない、という認識が強くなってしまうのではないか。
SEIBUの廃部は1種目のスポーツのみならず、スケート界全体の問題であるという意識を日本スケート関係者はもう一度考え直すべきではないだろうか。