奇跡は起きず…

巨人 木村拓也コーチ死去(Sponichi Annex)
巨人の木村拓也コーチが死去(nikkansports.com)
巨人・木村拓也コーチ、7日未明に死去(スポーツ報知)
2日の広島戦(マツダスタジアム)の試合前の練習中にくも膜下出血で倒れ、意識不明状態が続いていた巨人・木村拓也内野守備走塁コーチが、本日午前3時22分、意識を回復することなく広島大病院で逝去。享年37歳。自身の苦労話を後輩たちに語られるなど、これからその経験を広めていこうという矢先の出来事に言葉になりません。謹んでご冥福をお祈り致します。

ところで、話は変わるが今回の訃報を聞き、かつて将来を嘱望されながら、若くして病に倒れ帰らぬ人となった日産自動車、故・小澤裕昭投手のことを思い出した。
小澤投手は97年夏の甲子園甲府工(山梨)のエースとして出場し、98年に日本大に進学。2002年に日産に入社し、貴重な左腕投手として背番号18を与えられるなど、将来を期待されていた。
ところが2年目の2003年夏、小澤投手は練習中に心筋炎で倒れ、そのまま意識を取り戻すことなく8月24日に逝去。まだ24歳の若さだった。
自分が小澤投手の名前を初めて見たのは、まだ高校2年生の時、「野球小僧潤・」(白夜書房)に掲載された日大野球部優勝を扱った岡邦行氏の読み物でのこと。優勝のかかった青山学院大戦を前に、当時青学の絶対的エースだった石川雅規(現東京ヤクルト)の仮想役として打撃投手を務める場面でのことだ。その後、日産に入社したことを知った時は「ああ、あの場面に出てきていた…」という認識だったのだが…。
大学1年の秋、立ち読みした週刊ベースボールの社会人野球情報を見ていた時のこと。日産が日本選手権に出場を決めた記事を読んでいた時、衝撃を受けた。
「えっ、あの小澤さんが!?」
そこには代表権を取ったことを報じる記事と一緒に、小澤さんが亡くなったということが書かれていた。あまりの衝撃に呆然としてしまったことを思い出す。
11月、小澤さんの思いを乗せた日産ナインは日本選手権で快進撃を披露。大阪ガスとの決勝はリードを奪われる苦戦を強いられるも土壇場で追い付き、延長11回サヨナラ勝ち。サヨナラ打を放ち、大会MVPに輝いた伊藤祐樹内野手は試合後「それまで怒っているように見えた遺影の小澤が最後に笑ってくれた」とコメントを残している。それだけに、あの一件は自分が日産野球部をさらに応援していくきっかけとなった出来事だったし、また、翌年のセンバツに小澤投手の母校・甲府工が出場した際、小澤さんの形見の品が甲府工のアルプスにあったという話を中継で知り、胸が熱くなったことを思い出す。

今シーズン終了時、木村コーチの遺影は巨人ナインの目にどう映っているだろうか。