25年目のタイ記録

平成24年東京六大学野球春季リーグ戦は、早稲田が2010年秋以来、3シーズンぶりの優勝を飾った。また、この優勝で早稲田の優勝回数は43回となり、これまで法政大が持っていたリーグ最多優勝回数に並んだ。
もともと東京六大学野球の最多優勝回数は、長きにわたって早稲田がずっとその座を守り通してきた。1925年(大正14年)秋に行われた記念すべき第1回リーグ戦を制した早稲田は、戦前こそ慶応、明治の後塵を拝したもののピタリ追走し、1950年(昭和25年)秋に初めて優勝回数単独トップ(13回目)となると、その後慶応に追い付かれはしたものの、1952年(昭和27年)秋の15回目の優勝以後は一度もトップの座を明け渡さず、盟主の座を守り続けてきた。この間1959年(昭和34年)、1974年(昭和49年)には全日本大学野球選手権を制して大学日本一に輝き、1960年(昭和35年)秋には、現在も語り草となっている伝説の早慶6連戦を制し、20回目の優勝を果たしている。まさに、日本野球を形作ってきたチームにふさわしい実績である。
ところが、この早慶6連戦の後、6シーズン連続Bクラス(62年秋からは3シーズン連続5位)に転落した辺りから早稲田の優勝回数は伸びなくなっていく。そしてここで巻き返しに出たのが法政だ。59年までの法政の優勝回数は6回と、6校中5番目の数字だったが、この年の春のリーグ戦を制し、初の大学日本一に輝くと、以後ハイペースで優勝回数を重ねていき、1969年(昭和44年)秋から1971年(昭和46年)春にかけ、チーム史上初の4連覇を記録。また、江川卓(元巨人。現野球評論家)や金光興二(現法政大野球部監督)ら“花の49年組”を擁した1976年(昭和51年)春から1977年(昭和52年)秋にかけての4連覇は、何れも勝点5の完全制覇で達成されたものであり、これは史上唯一の記録である。また、1978年(昭和53年)、1980年(昭和55年)、1981年(昭和56年)には明治が大学選手権で優勝するなど、昭和50年代のリーグ戦は法政9回、明治8回と、この2校が優勝を持ち回りするような格好になっていく(この傾向は基本的に90年代後半まで続く)。
この間、早慶両校は冬の時代だった。慶応は1971年(昭和46年)秋から1972年(昭和47年)秋にかけて3連覇を果たしたものの、その後1年生エース・志村亮を擁した1985年(昭和60年)秋まで10年以上優勝から遠ざかる長期低迷期に突入。早稲田も1969年から1972年(昭和47年)の間一度も優勝出来ず、史上3度目の「優勝を知らない世代」を出すなどして苦戦を強いられていく。
そして1987年(昭和62年)秋、ついに早稲田は法政にリーグ戦最多優勝回数1位の座を明け渡す。1982年(昭和57年)秋に29回目の優勝で王手をかけてから9季足踏みしている間に法政は4度の優勝を重ねて追いつき(1986年春)、追い抜いたのであった。早稲田は1990年(平成2年)春にようやく30回目のリーグ制覇を果たすが、14季連続優勝無しというのはもちろん早稲田野球部史上最長の優勝ブランクである。
90年代に入っても早稲田の苦戦は続き、1998年(平成10年)春には泥沼の8連敗を喫し、5位に転落。2001年(平成13年)秋までに法政との優勝回数の差は「8」にまで広げられてしまう。節目の年にしか勝てない、と言われたのもこの頃である(Wikipedia参照)
だが、1999年(平成11年)、早稲田野球部の歴史は大きく変わる。早慶6連戦時の捕手だった野村徹氏を監督に迎えたこの年の春、左腕エース・藤井秀悟(現横浜DeNA)、3年生右腕・鎌田祐哉(現台湾・統一)の二枚看板を軸に、開幕8連勝で11シーズンぶりのリーグ制覇(大学選手権準優勝)を果たすと、90年代の競技スポーツの低迷の反省から同年に総長の諮問機関として「スポーツ振興協議会」が設立。2000年(平成12年)の入学者からは人間科学部スポーツ科学科(現スポーツ科学スポーツ科学科)の推薦入試制度が導入され、鳥谷敬(現・阪神)、清水大輔(現・JR東日本野球部マネージャー)がその1期生として入学。さらに、和田毅(現ボルティモア・オリオールズ)、青木宣親(現ミルウォーキー・ブリュワーズ)、田中浩康(現・東京ヤクルト)らが揃った2002年(平成14年)春から翌2003年(平成15年)秋にかけて、部史上初の4連覇を達成。その後の現在に至る隆盛はご存知の通りである。
25年かけて優勝回数が並んだことは、近年の学校側の努力、そして諸先輩方が築き上げてきた伝統、そしてそれを受け継いできた部員の力の結集である。次は単独トップの座の奪回と通算50回目の優勝一番乗りが目標となる。果たしてそこまでどれほどのペースで行けるかに注目していきたい。